気になっていたドキュメンタリー映画『ミッドナイト・ファミリー』を、オンライン試写のお誘いをいただいたので観ました。
“メキシコシティで営利目的の救急隊を営むオチョア家族。同業の救急救命士らと競い合って急患の搬送にあたっている。この熾烈なビジネスで生計を立てるため、オチョア家族は救急医療を求める患者から何とか日銭を稼ごうと奮闘する。汚職警官による闇営業の取り締りが厳しくなり、私営救急事業の正式な認可を得なければならない事態となる。必要な救急医療サービスを提供しているにもかかわらず、オチョア家族は金銭的に追い詰められ、状況は問題を孕んでゆく。”
“「ミッドナイト・ファミリー」は、倫理的に疑問視されるオチョア家の稼業を、人間味あふれる視点で捉えつつ、メキシコの医療事情、行政機能の停滞、自己責任の複雑さといった差し迫った課題を私たちに突きつける。”
ここからは俺の感想。
赤と青のパトライトを高速回転させサイレンをけたたましく鳴らして爆走する闇営業のオチョア家の民間救急車。現場到着1番乗りを競うかのごとく突っ走るこの映像は、カーチェイス的な高揚感を生む。しかし、なぜこの救急車は走るのか、を考えると、高揚感でワクワクしている場合ではなくなる。人口に対し圧倒的に少ないメキシコシティの市営救急車。その状況下で、オチョア家は、経費や賄賂でお金が消えながらも闇営業の民間救急車を使い救急搬送代で日銭を稼ごうとしているのだから。
俺は、この映画を観ながら、脳梗塞で倒れた親を乗せた救急車に同乗したことを思い出した。もしもあの時、公営の救急車が出払っていたとして、メキシコシティのように非許可の民間救急車が家に駆けつけられるのだとしたら、非許可だろうがそんなことはどうでもよくなって、運んでくれるって言ってるんだからその人たちに救急搬送代を払って親を病院に連れていってもらったかもしれないなあ。。もし自分にお金がなかったら、救急搬送代を払わないなんてことをしちゃうのだろうか。。
映画を観たあとに、日本の外務省の【世界の医療事情】欄の【メキシコ】をチェックしたら、「公立病院には患者が集中し,加えて予算不足による機材や設備の老朽化,医薬品の不足が問題となっており,満足な治療が受けられない場合がある」とされていて、『ミッドナイト・ファミリー』のようなメキシコシティの状況は載っていない。「満足な治療が受けられない場合」という文字からは、オチョア家の救急車を想像することは難しい。実情を知るのは現地に住む人々、ということか。
最近の日本、菅首相が言った「自助・共助・公助」という言葉に持った違和感。なんで「自助」が一番先に出てくるんだ?という疑問は、『ミッドナイト・ファミリー』を観たことによって、さらに深まった。
先日観たブラジルのフィクション映画『エリート・スクワッド ブラジル特殊部隊BOPE』(ポルトガル語: Tropa de Elite 2 – O Inimigo Agora é Outro、英語: Elite Squad: The Enemy Within)』は、“前作にて特殊警察作戦大隊隊長だったナシメントが腐敗が蔓延するブラジル政府や警察組織の闇に立ち向かう物語”で、腐敗構造のことを主人公は〝システム〟と呼んでいた。このシステムと同様の臭いを、『ミッドナイト・ファミリー』で賄賂を要求する警官に感じた。賄賂を要求する警官に倫理を説いても数は減らないだろう。それは、個人単体の問題ではないからである。
腐敗構造を観客側が憂いたり考える合間にも出来事は進行していることを静かに伝え、オチョア家の姿を見てどう思うかによりその人(観客)の立場が明確になるドキュメンタリー映画が『ミッドナイト・ファミリー』だ。